
小さなまち早島の
小さくない歴史や魅力

その昔、瀬戸内海に浮かぶその小さな島は、海流がとても早かったそうです。そのことが「早島」の由来だと言われています。
今では瀬戸内の温和な気候と相まって、ゆったりとした時間が流れる穏やかな町ですが、町の端から端まで歩いて行くこともできるほど、岡山県でもいちばん小さい市町村となりました。



肌と心で感じる
い草のぬくもり

畳の原料としても知られるい草は、丈夫で調湿や抗菌など優れた効果を持つ天然素材です。畳だけではなく、ござや籠などにも広く使用されており、手触りの良いい草は日本を感じる身近な素材と言えます。早島は歴史的にもい草やござの一大生産地として栄え、今も様々ない草製品がつくられています。
明治時代に近代的な織り機が発明されてからは、花ござと呼ばれる華やかな模様のござは海外にも輸出され最盛期を迎えます。その後の生活様式の変化とともに、い草産業もまた大きく移り変わっていきましたが、町内にある花ござ手織り伝承館などでは、今も昔ながらの技術を保存・継承しています。


歴史が息づく
ノスタルジックな
町並み

かつてい草や畳表の産地として栄えた早島は、その歴史を今に伝えるような古い建物や街並みが数多く残っています。伝統的ななまこ壁や、細やかな格子が施された建物など、一部は町の施設として、保存・活用がされており、当時の面影を垣間見ることができます。
早島の歴史的建物群は、大きくしっかりしたものも多く、なかには上級武士の住まいとしてよく保存されたものもあり、貴重な遺構となっています。町を歩いていると、長く並んだ古い土壁なども見かけることができ、近世の時代から受け継がれてきた風景に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。


島の名残と
自然の風景

早島町の南側は大部分は平坦な干拓地(低地)が多く、干拓によって生まれた広大な田園風景が広がっています。反対に北側は小高い丘陵地になっており、こうした地形は瀬戸内海に浮かぶ島であった頃の名残でもあります。そのため、今も島から眺めるような風景や自然が数多く残っているのです。
早島公園では四季折々の花や植物が楽しめ、桜の名所としても知られています。また、北部のふれあいの森公園ではキャンプやハイキングがご家族でも楽しめるなど、町内には自然を感じられる場所がたくさんあります。身近にある飾らない自然にふれてみるのもいかがでしょうか。


島の名残と
自然の風景

早島町の南側は大部分は平坦な干拓地(低地)が多く、干拓によって生まれた広大な田園風景が広がっています。反対に北側は小高い丘陵地になっており、こうした地形は瀬戸内海に浮かぶ島であった頃の名残でもあります。そのため、今も島から眺めるような風景や自然が数多く残っているのです。
早島公園では四季折々の花や植物が楽しめ、桜の名所としても知られています。また、北部のふれあいの森公園ではキャンプやハイキングがご家族でも楽しめるなど、町内には自然を感じられる場所がたくさんあります。身近にある飾らない自然にふれてみるのもいかがでしょうか。


歴史を紡ぐ
四つの柱

い草のまち、早島
短いい草を中ほどで継いだ中継表は、「早島表」の名で全国に知られました。
早島のい草のルーツ
早島町は、い草、い製品の町として発展してきましたが、早島でいつからい草が栽培されていたのか定かではありません。しかし、室町時代後期の天文5年(1536)の文書に京都相国寺鹿苑院へ早島から畳表50枚が納められたとあり、当時、すでに早島で盛んにい草や畳表が作られていたことがわかります。

早島表(はやしまおもて)の名声
早島がい草、畳表の全国的な産地として成長していくのは、江戸時代中期のことです。江戸時代中期、干拓で生まれた大地に塩分に強いい草が植えられ、干潟に生える葭草や浜松は、い草の大切な肥料になりました。
そして、この辺りで織られる畳表は、「早島表」の名で大坂や江戸を経由して全国に出荷されました。早島表の名声は江戸の小説家滝沢馬琴の『夢相兵衛胡蝶物語』の一節に「近頃表かえした早島の席薦へ心なく酒をこぼすとき」と記されるほど高まっていました。
また、早島には近江の豪商「大文字屋西川家」の支店が置かれ、手広く商いを行うなど、早島が畳表の流通にとっていかに大きな役割を果たしていたかがわかります。さらに大文字屋の江戸店には、「早島蔵」という名の特別な蔵があったことも知られています。
い草産業の盛衰
明治になり、倉敷市茶屋町の磯崎眠亀が錦莞莚を発明すると、早島、茶屋町を中心に数多くの花ござ工場が設立され、花ござは貴重な輸出品として主にアメリカに輸出されました。
その後も早島はい草い製品の町として栄え、昭和39年にはい草の作付面積、畳表の生産量とも最高を記録しました。しかし、昭和40年代になると人々の生活様式や早島周辺の社会環境も大きく変化し、早島の生産地としての地位は急激に低下していきました。そして、平成12年には早島町のい草栽培面積はゼロとなり、450年のい草栽培の歴史に幕を降ろしました。
しかし、日本固有の生活様式である畳文化を支えてきた誇りは、今も町に引き継がれています。
干拓のまち、早島
早島はその名が示すように、かつては瀬戸内の海に浮かぶ島の一つでした。
宇喜多堤
吉備の穴海と呼ばれた早島周辺の海も、高梁川などの運ぶ土砂によって、しだいに干潟化していきました。今から約400年前、このあたりを支配していた戦国大名宇喜多秀家は、この児島の海の干拓を思い立ち、高松城水攻めの堤防築造の指揮者であった岡豊前守勝利と千原民部九右衛門に命じ、汐止めの堤を築かせました。
堤は早島の東端多聞カ鼻から倉敷の向山に至り、そこからさらに酒津に至る大規模なもので「宇喜多堤」と呼ばれました。現在、早島の街中を走る県道倉敷妹尾線はこの堤の跡と言われています。
以後、児島湾の干拓事業は、昭和38年の児島湾締め切堤防の完成まで営々と続き、早島町はその先駆けの町となりました。

前潟の干拓(新田開発)
江戸時代を迎えても、干潟の開発は続き、江戸時代中期の寛文7年(1667)には、早島の庄屋佐藤助左衛門を中心に早島東西の村々が協力して眼前に広がる干潟の開発に取り組みました。
工事はたび重なる堤の決壊や資金不足などのため、度々中断するなど困難をきわめ、最後の汐止めが完成するまでに12年を歳月を費やしました。そして、新たに開かれた約100町歩の大地は、陣屋の前にある干潟を開発したことから前潟新田と名づけられました。
備前・備中国境争論
その後、前潟新田の南に沖新田が宝永4年(1707)に完成しますが、開発はここで大きな問題に直面します。沖新田のさらに南に広がる干潟の開発をめぐり、備前と備中の村々が激しく対立、ついには国境争論に発展し、江戸での訴訟となりました。
新田開発にトラブルはつきものですが、この場合は開発場所の帰属が不明確なうえに、農業用水や排水、漁業権の問題など、児島湾沿岸の村々の利害が複雑に絡み合いあい、享保から文政まで約100年にわたって訴訟が繰り返されました。
その結果、文化13年(1816)最終的な裁定が下され、国境は現在の海岸線とし児島湾一円は備前児島に帰属するものとするが、備中方の権益は備前の許可のもと認められることになりました。そして、この裁定を受けて児島湾内にある問題の干潟は文政6年(1823)備前藩の手で開発され「興除新田」と命名されました。今、町内の下前潟地区にある備前備中国境標石は、この時の裁定によって設置されたものです。
旗本のまち、早島
江戸時代、二百数十年にわたり早島を治めた旗本戸川家の陣屋のまち。
戸川家
江戸時代、早島を治めたのは旗本の戸川家でした。戸川家の家祖、戸川達安(みちやす)は父秀安の代から宇喜多家の重臣として常山の城を預かっていましたが、お家騒動のため関東に下り、関が原合戦には東軍に加わりました。そして合戦では、敵将石田三成の懐刀と言われた島左近を討ち取ったと伝えられ、その功により備中庭瀬2万9200石の大名として賀陽、都宇の二郡を与えられました。

旗本戸川家六流
その後庭瀬藩を継いだ達安の嫡子正安は、寛永5年(1628)弟の安尤(やすもと)に3400石を安利(やすとし)に3300石を分地し、旗本として早島知行所、帯江知行所をおこさせました。その後も戸川家は分家を繰り返し、庭瀬・撫川・早島・帯江・妹尾・中島の6家となりましたが、本家の庭瀬は絶家したため、撫川の戸川家が名跡を継ぎ4000石を加増され交代寄合に叙せられました。
早島戸川家
寛永5年、早島知行所をおこした安尤は、旗本として江戸木挽町築地に屋敷を拝領し、慶安2年(1649)領主として初めて早島に入りました。元禄6年(1693)二代安明は、陣屋を早島の塩地に定め、17年の歳月をかけ宝永6年(1709)三代安貞の時に完成させました。安貞は日蓮宗への帰依が厚く、本町の妙法寺に自筆の陀羅尼品一巻を奉納しています。また、鶴崎神社には四代安晴が正徳6年(1716)に奉納した江戸上野寛永寺の絵馬が伝わり、九代安悌(やすちか)は文化5年に国鉾神社へ見事な石灯篭を寄進しました。
早島戸川家最後の領主となった13代戸川安宅(やすいえ)は、元治元年(1864)の長州征伐に出兵した後、明治元年には兄に代わり上洛し、朝廷に忠勤を誓い、早島に入部しました。明治7年、安宅はキリスト教に入信、牧師として伝道に従事しました。また明治36年には「文学界」に新体詩『桂川』『明智光秀』を発表するなど、文学にも深い関心を示しました。
金毘羅往来のまち、早島
江戸時代に流行した四国金比羅参詣。この参詣で行き交う人々でにぎわった金比羅往来とともに栄えたまち。
金比羅往来
江戸時代中ごろから流行した四国金比羅参詣。
この参詣のための道は金比羅往来と呼ばれ多くの人たちが行き交いました。
金比羅大権現は、商工業者、農民など広く信仰を集め、諸国からの参詣者が集まるようになり、往来の沿線には、旅籠や茶屋ができました。
往来は、岡山城下を起点として旧山陽道を通り吉備津・庭瀬を経由するルートと大元・米倉・妹尾経由するルートとがありました。
これらは、早島町内の市場地区付近で交わり、まち筋を横断、弁才天地区に至り、その後南進し、茶屋町や藤戸、林を経由して由加山、金比羅方面を目指します。
早島町内には、参詣者の便を図るため金比羅往来に沿って燈籠のほかにも数多くの道標も建てられています。

金毘羅往来の道のり

金毘羅往来案内図
当時、金比羅への道は大坂からの瀬戸内海を横切り丸亀に上陸する海上ルートと山陽道を西進し岡山から四国を目指す陸上ルートの二つがありました。
船宿では、道中の名所や道筋を描いた案内図が配られ、これら案内図のほとんどに「早島」の名が記載されていました。
い草のまち、早島
短いい草を中ほどで継いだ中継表は、「早島表」の名で全国に知られました。
早島のい草のルーツ
早島町は、い草、い製品の町として発展してきましたが、早島でいつからい草が栽培されていたのか定かではありません。しかし、室町時代後期の天文5年(1536)の文書に京都相国寺鹿苑院へ早島から畳表50枚が納められたとあり、当時、すでに早島で盛んにい草や畳表が作られていたことがわかります。

早島表(はやしまおもて)の名声
早島がい草、畳表の全国的な産地として成長していくのは、江戸時代中期のことです。江戸時代中期、干拓で生まれた大地に塩分に強いい草が植えられ、干潟に生える葭草や浜松は、い草の大切な肥料になりました。
そして、この辺りで織られる畳表は、「早島表」の名で大坂や江戸を経由して全国に出荷されました。早島表の名声は江戸の小説家滝沢馬琴の『夢相兵衛胡蝶物語』の一節に「近頃表かえした早島の席薦へ心なく酒をこぼすとき」と記されるほど高まっていました。
また、早島には近江の豪商「大文字屋西川家」の支店が置かれ、手広く商いを行うなど、早島が畳表の流通にとっていかに大きな役割を果たしていたかがわかります。さらに大文字屋の江戸店には、「早島蔵」という名の特別な蔵があったことも知られています。
い草産業の盛衰
明治になり、倉敷市茶屋町の磯崎眠亀が錦莞莚を発明すると、早島、茶屋町を中心に数多くの花ござ工場が設立され、花ござは貴重な輸出品として主にアメリカに輸出されました。
その後も早島はい草い製品の町として栄え、昭和39年にはい草の作付面積、畳表の生産量とも最高を記録しました。しかし、昭和40年代になると人々の生活様式や早島周辺の社会環境も大きく変化し、早島の生産地としての地位は急激に低下していきました。そして、平成12年には早島町のい草栽培面積はゼロとなり、450年のい草栽培の歴史に幕を降ろしました。
しかし、日本固有の生活様式である畳文化を支えてきた誇りは、今も町に引き継がれています。
干拓のまち、早島
早島はその名が示すように、かつては瀬戸内の海に浮かぶ島の一つでした。
宇喜多堤
吉備の穴海と呼ばれた早島周辺の海も、高梁川などの運ぶ土砂によって、しだいに干潟化していきました。今から約400年前、このあたりを支配していた戦国大名宇喜多秀家は、この児島の海の干拓を思い立ち、高松城水攻めの堤防築造の指揮者であった岡豊前守勝利と千原民部九右衛門に命じ、汐止めの堤を築かせました。
堤は早島の東端多聞カ鼻から倉敷の向山に至り、そこからさらに酒津に至る大規模なもので「宇喜多堤」と呼ばれました。現在、早島の街中を走る県道倉敷妹尾線はこの堤の跡と言われています。
以後、児島湾の干拓事業は、昭和38年の児島湾締め切堤防の完成まで営々と続き、早島町はその先駆けの町となりました。

前潟の干拓(新田開発)
江戸時代を迎えても、干潟の開発は続き、江戸時代中期の寛文7年(1667)には、早島の庄屋佐藤助左衛門を中心に早島東西の村々が協力して眼前に広がる干潟の開発に取り組みました。
工事はたび重なる堤の決壊や資金不足などのため、度々中断するなど困難をきわめ、最後の汐止めが完成するまでに12年を歳月を費やしました。そして、新たに開かれた約100町歩の大地は、陣屋の前にある干潟を開発したことから前潟新田と名づけられました。
備前・備中国境争論
その後、前潟新田の南に沖新田が宝永4年(1707)に完成しますが、開発はここで大きな問題に直面します。沖新田のさらに南に広がる干潟の開発をめぐり、備前と備中の村々が激しく対立、ついには国境争論に発展し、江戸での訴訟となりました。
新田開発にトラブルはつきものですが、この場合は開発場所の帰属が不明確なうえに、農業用水や排水、漁業権の問題など、児島湾沿岸の村々の利害が複雑に絡み合いあい、享保から文政まで約100年にわたって訴訟が繰り返されました。
その結果、文化13年(1816)最終的な裁定が下され、国境は現在の海岸線とし児島湾一円は備前児島に帰属するものとするが、備中方の権益は備前の許可のもと認められることになりました。そして、この裁定を受けて児島湾内にある問題の干潟は文政6年(1823)備前藩の手で開発され「興除新田」と命名されました。今、町内の下前潟地区にある備前備中国境標石は、この時の裁定によって設置されたものです。
旗本のまち、早島
江戸時代、二百数十年にわたり早島を治めた旗本戸川家の陣屋のまち。
戸川家
江戸時代、早島を治めたのは旗本の戸川家でした。戸川家の家祖、戸川達安(みちやす)は父秀安の代から宇喜多家の重臣として常山の城を預かっていましたが、お家騒動のため関東に下り、関が原合戦には東軍に加わりました。そして合戦では、敵将石田三成の懐刀と言われた島左近を討ち取ったと伝えられ、その功により備中庭瀬2万9200石の大名として賀陽、都宇の二郡を与えられました。

旗本戸川家六流
その後庭瀬藩を継いだ達安の嫡子正安は、寛永5年(1628)弟の安尤(やすもと)に3400石を安利(やすとし)に3300石を分地し、旗本として早島知行所、帯江知行所をおこさせました。その後も戸川家は分家を繰り返し、庭瀬・撫川・早島・帯江・妹尾・中島の6家となりましたが、本家の庭瀬は絶家したため、撫川の戸川家が名跡を継ぎ4000石を加増され交代寄合に叙せられました。
早島戸川家
寛永5年、早島知行所をおこした安尤は、旗本として江戸木挽町築地に屋敷を拝領し、慶安2年(1649)領主として初めて早島に入りました。元禄6年(1693)二代安明は、陣屋を早島の塩地に定め、17年の歳月をかけ宝永6年(1709)三代安貞の時に完成させました。安貞は日蓮宗への帰依が厚く、本町の妙法寺に自筆の陀羅尼品一巻を奉納しています。また、鶴崎神社には四代安晴が正徳6年(1716)に奉納した江戸上野寛永寺の絵馬が伝わり、九代安悌(やすちか)は文化5年に国鉾神社へ見事な石灯篭を寄進しました。
早島戸川家最後の領主となった13代戸川安宅(やすいえ)は、元治元年(1864)の長州征伐に出兵した後、明治元年には兄に代わり上洛し、朝廷に忠勤を誓い、早島に入部しました。明治7年、安宅はキリスト教に入信、牧師として伝道に従事しました。また明治36年には「文学界」に新体詩『桂川』『明智光秀』を発表するなど、文学にも深い関心を示しました。
金毘羅往来のまち、早島
江戸時代に流行した四国金比羅参詣。この参詣で行き交う人々でにぎわった金比羅往来とともに栄えたまち。
金比羅往来
江戸時代中ごろから流行した四国金比羅参詣。
この参詣のための道は金比羅往来と呼ばれ多くの人たちが行き交いました。
金比羅大権現は、商工業者、農民など広く信仰を集め、諸国からの参詣者が集まるようになり、往来の沿線には、旅籠や茶屋ができました。
往来は、岡山城下を起点として旧山陽道を通り吉備津・庭瀬を経由するルートと大元・米倉・妹尾経由するルートとがありました。
これらは、早島町内の市場地区付近で交わり、まち筋を横断、弁才天地区に至り、その後南進し、茶屋町や藤戸、林を経由して由加山、金比羅方面を目指します。
早島町内には、参詣者の便を図るため金比羅往来に沿って燈籠のほかにも数多くの道標も建てられています。

金毘羅往来の道のり

金毘羅往来案内図
当時、金比羅への道は大坂からの瀬戸内海を横切り丸亀に上陸する海上ルートと山陽道を西進し岡山から四国を目指す陸上ルートの二つがありました。
船宿では、道中の名所や道筋を描いた案内図が配られ、これら案内図のほとんどに「早島」の名が記載されていました。







